グレン・グールド(ピアニスト)
出典 GG 『グレン・グールド書簡集』(みすず書房より)バンクォー殿――
きっとソ連の犬について知りたいんじゃないかな。本当にほとんどいない。大半は戦争中に殺されてしまったんだそうだ。そのとき以来ペットを飼うのはとてもブルジョワなことだと考えられているらしい。それでもいちばんよく見かけるのは毛を刈りこんでいないプードル。雑種はいくらかいるけれど、コリーとおぼしき犬は一匹もいない。おまえがここにいたら、わがもの顔で街を闊歩できるよ。今朝僕の部屋の外で猫が喧嘩をしていたけれど、こいつをじゃまして欲しかったな。お皿をきれいにして、いい犬でいるんだよ。
この愛情とユーモアに溢(あふ)れた文章は、1957年5月に北米のピアニストとして戦後初めてソ連に招かれたグレン・グールド(1932-1982)が、愛犬バンクォーに宛てたものだ。今もクラシック界に語り継がれる“伝説のコンサート”の合間に、こんな手紙を書いているあたりがいかにもグールドらしくて微笑(ほほ)えましい。
1949年、グールドと飼い犬のニッキー
Courtesy of Glenn Gould Limited / Glenn Gould Estate
一人っ子だったグールドが、幼い頃から常に犬と一緒だったことは遺(のこ)された写真の数々から窺(うかが)い知れる。特に少年時代の愛犬であったイングリッシュ・セターのニッキーとの逸話がおもしろい。14歳にしてすでにオーケストラとの共演を果たしていたグールドのある日のステージ衣装には、抜け毛の時期にあったニッキーの白い毛がびっしり付着していたという。
「コンサートの前にはニッキーから離れているように父親から言われていたけれど、ニッキーは愛情豊かで思いやりがあるので、大切な任務遂行にあたる友人に対して成功を祈る気持ちを表明せずに見送るような動物ではなかったのです」などと語っているグールドが可笑(おか)しい。しかもオーケストラとの共演中に隙を見て犬の毛を取っていたというのだからますます可笑しい。演奏中の鼻歌ともあいまって、この日の聴衆はもちろん指揮者やオーケストラのメンバーもさぞや面食らったに違いない。それでも彼の奏でる音楽は何者にも代えがたい。
グールドの名を一躍有名にした名盤『ゴールドベルク変奏曲』をはじめ、その生涯を通じて演奏し続けた作曲家がヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)だったことは有名だ。そのバッハが生まれた頃に日本では何があったのかを調べてみると、“イヌ将軍”として名高い徳川家の5代将軍綱吉が「生類憐れみの令」を発令した年にあたる。“犬と音楽のステキな風景”はこんなところにも。
『グレン・グールド MEETS アンジュール-ショート・ムービー「アンジュール」オリジナル・サウンドトラック』
アーティスト/グレン・グールド
品番/ SICP3655
レーベル/ソニー・ミュージックレーベルズ
CD/1,905円(+税)
絵本作家ガブリエル・バンサンの代表作『アンジュール・ある犬の一日』をベースに、グレン・グールドの演奏を重ねてショート・アニメ化した映像作品のサウンドトラック盤
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プロフィール
田中 泰
日本クラシックソムリエ協会の代表理事。J-WAVE「モーニングクラシック」での名曲紹介および「JAL 機内クラシック・チャンネル」の構成などを通じてクラシックの普及に努める。愛犬はアメリカン・コッカー・スパニエルのラルゴ(メス・11才)。
文=田中 泰
構成/小松﨑裕夏